昭和42年6月29日朝の御理解
(途中から)いうならばです。ね。バカらしいのだし、めんどくさいのだし、久富繁雄さんのお話でも同じ事。ね。この光を手に、また合楽までもお参りさして頂いて、しかもまた、1時間になった、2時間になってあちらで、御用頂いて帰る。もう、いうならたいへんな無駄な時間のようにあるけれども、その無駄な時間がです、ね、久富繁雄さんをしてから、心の中にこんな喜びを頂けるということはです、家では頂かれない。
そこんところを粗末にしたんでは頂けない。ここにはもう、いわば無形の喜び。形のないけれども、無形の有り難さ。その有り難さが、明くる日に疲れを言わさない、明くる日までの、また働かせてもらう一つの原動力といったようなものがです。与えられておる。疲れないその喜びが残りがこう、消してしまうような作用をし、そういう働きをする。
どうせ猫にやるのじゃからと言うて、それでもいいのですけれども、お粗末にならんのですけれども、けれどもそこんところをです、一粒一粒をやはり拾わして頂くその、その時間こそが実を言うたら信心であり、それが実意丁寧なもの。そこんところにですね、不思議な無形の働きというものが頂けれるのである。
そういう無形の信心の喜びというものをですね、このそういうような、ほんのわずかばかりの精進のところ、不精進のところから、その有り難さが抜けてしまっておるような気がいたします。何か最近、椛目の、椛目と合楽の場合は、何か一つの何かもっと大きな大きな問題に取り組んでおる。合楽全体が。
ですから何とはなしに、そういう小さいところがお粗末になっておるといったような気がする。ね。どんなに、例えば大きな願いを持っておりましてもです、小さいところから、いわば有り難いものが漏っておったら、もうお終いです。何にもならん。そういう、私ども日常生活の些細な事の中にですね、もう一精進と言うところが欠けておるように思うのです。ね。
ほんとにもったいのうございます。と言うて(狭間の?)ご飯粒一粒一粒拾わして頂いておるうちにです、例えて言うさっきから申しますのは、信心の喜びを全身にみなぎって来るようなものが頂けたら、たいへんな事ですもんね。そのおかげが有り難いのです。もうそれを神様が喜んで下さるんです。そんなになったら、信心のあるもんも無いもんも差がそんなにありませんよね。
お粗末にせんから、とこう言う考え方、「別に神様を忘れとるわけじゃないから、もう神様にお仕えする事神様がご承知じゃから」ね。それでもいいんですけれども、そこんところを体験さしてもらう。なるほどこの一粒一粒、(狭間に付いておる?)そのお米をです、またはご飯をです、頂かせて頂いて行くうちにです。「金光様金光様」と心に念じさせて頂くなら、頂かせて頂くうちにです。心の中に頂く、いわゆる体全身に新しい血が入れ替えられるような、一つの感激というわけじゃないですけれども、とにかくしみじみとした有り難さと言うわけでしょうね。が体いっぱいに、五体いっぱいにこうみなぎって来る。
そこに次のおかげの頂けれる基が生まれて来る。次の健康が約束される。今日の疲れはその喜びで払われる。と言うおかげになると思うのです。昨日、妹のそのお届け聞かせて頂いてから、「ほんとそこに、そこに気がこの頃欠けておるもんね」と言うてから、妹と二人で話した事でございました。ね。
粗末にはならん。粗末にはしない。確かにそうだろう、粗末にもしないだろう、お粗末にもならんかもしれません。どうせ猫にやらんならんのだから、猫にやるのだから。ね。けれどもそこんこつ、信心で頂くその事がすでにお粗末な生き方、なあり方であるということ。そこんところを実意丁寧に一粒一粒頂かせて頂くというところにです。
いうならば理屈で言うたらバカらしい話。時間で言うたら無駄なようにもあるけれども、そこにです、無形のおかげというものがです、これはほんとに形の無いおかげが頂けれる。その形の無いおかげがです、次の形のあるおかげを頂けれる基になると言うたら、やはりそこんところを大事にしなければならないということが分かりますですね皆さん。どうぞ。
明渡 孝